
昭和17年、
兼吉渡しより、向島西村兼吉商店街、住田パンまでの道路拡幅
拡幅記念でパレード的な催しがあったそうです。当店2代目の祖母含む婦人会で踊り歩きがありました。本土の尾道市内を含め、車だけでなく、バスもすれ違える程の、ここまで広い道路は、国道2号線と尾道商店街を除き、他には無かったそうです。尾道本土から向島に渡船で渡り、兼吉商店街に買い物に来ることも珍しいことではなかったようです。日立造船があったこともあり、尾道・向島間の行ききは人、流通、共に相当なものだったようで、重量オーバーで渡船が沈み、足首くらいまでの半浸水状態で運行することがあったようです。昭和50年初期まで、尾道、向島間を結ぶ主要幹線道路でした。
-- 兼吉道路拡幅工事(こんなに広くなりました) --
写真タイトルは戦前のため、右から左読みです

昭和20年代初期、神明祭。住田パン前での撮影
正面手前3件の建棟は、現在もそのままです。右から、床屋さん、米屋さん
だしものですが、高さを競って作ってます。2階建の屋根より高いです。
昨今では、電線が渡っているので、当時と同じものでは通れません。
今のものは、かなり小ぶりで低いです。
しかも、だしものは、ひとつだけです(当時は5個程度ありました)
戦争も終わり、兼吉商店街の最盛期です。
昭和17年と平成27年

右手前2件は看板は変わってますが建物は当時のままです
戦後復興期、昭和27年前後と思われる。向島本店にて

住田パンでの製パン講習会。1列右から2番目の作業服が創業者
小麦粉、砂糖等の配給が終わり、通常流通するようになった頃で、各地で講習会が盛んに開かれていました。パン組合で講師を呼んだり、食材屋(イーストメーカー)さんの主催もあり、現在の日本のパンの原型が作られました。ネジパンは、この頃に始まり、甘いものが限られていた当時、砂糖をたっぷりまぶしたネジパンは、一気に爆発的に日本全国に広まったようです。
、
戦後混乱期、昭和20年代前期と思われる。尾道工場にて

2代目、戦争未亡人。戦後、配給パンの時代。右上に手書きの張り紙
昭和10年。2代目、20歳、嫁入り前

大原写真館のモデル写真。住田パンの看板、ロゴのモデル
昭和30年代。宣伝用の手ぬぐい。2代目デザイン
戦前と思われる。宣伝用の一升徳利。電話番号が3桁

各地区の公民館などに寄付して、葬儀などで使ってもらっていたようです。
他、公民館での宴会など普通に行われていたようです。
先日、建てかえ予定の公民館から、いくつか返還されました。
昭和23年。配給委託工場の認可看板と認可状
昭和初期とおもわれる。労研饅頭(ローケンマントー)のお知らせ文
「四個入り五銭」「偽物注意」が読み取れる。指定工場のみでの製造と「労研饅頭」の名称の使用が認められていたらしい。倉敷労働科学研究所とあることから、神奈川移転前の、昭和11年以前の発行と思われる。
4個5銭で、店頭には豊富にならんでいたようですが、懐具合から常に購入できる状態の家は少なかったようです(祖父(戦死)の先輩にあたる方からより(故人))。