不明 | 現在の店舗を賃貸にて和菓子屋を始める |
大正5年 | パンの製造開始 / 手捏ねの時代 |
昭和14年 | 2代目嫁入り。向島で初の自動車(タクシー、ハイヤー)を利用しての嫁入り。途中で畑に脱輪する。 |
昭和17年 | 4代目の父生まれる。戦時配給制始まる |
兼吉通りの道路拡幅工事完了。現在までの基本形となる | |
昭和19年 | 本来の2代目戦死。2代目戦争未亡人となる |
昭和20年 | 国内の鉄不足のため、電気オーブン等を戦時供出。直後終戦 |
終戦。大混乱期。流通壊滅状態、配給も停止 | |
正式広報なく、大阪でイーストの配給有りとの噂が届く 2代目、大阪までイースト取りに行く。わずか500g程度の配給を受ける。 以後、しばらくの間、これを種にパン酵母自家培養でつなぐ | |
畑を処分して神戸にて電気オーブン再購入。敗戦物資不足の中、電気オーブンが製造され、それが購入でき、神戸から搬入されたことに驚きます。 | |
昭和21年 | 配給、闇米が入り乱れた時代。食べ物は何でも売れました |
尾道工場設立、戦争未亡人2代目が住みこみ操業。 まさに、NHKドラマ「おしん」の状態 | |
昭和26年 | このころに学校給食パンが始まった模様 |
昭和27年 | 創業者、成金状態。現在の店舗を買い取る |
昭和29年 | 向島中学校にて昼食のパン販売開始(当初は生徒会への委託販売) |
昭和35年 | 尾道商店街に出店(桂馬蒲鉾商店の近く) |
昭和37年 | 有限会社に移行 |
昭和38年 | 尾道商店街の店舗閉鎖 |
昭和40年 | 尾道工場閉鎖 |
昭和41年 | 住田パン前の三叉路交差点に、向島、初の信号機設置 |
昭和42年 | 3代目嫁入り |
昭和43年 | 4代目出生。「男」がでたということで、創業者の曽祖父大喜び。まわりがもっと寝かせて置けと注意するくらい抱っこして連れ歩く。 |
尾道大橋開通。2代目開通式に参加、歩いて渡る | |
昭和45年 | 創業者死去 |
昭和46年 | 店舗改装、タカギベーカリーの販売代理店となる これに伴い製造卸売から撤退。製造小売り、学校給食は継続 |
昭和54年 | 兼吉商店街の終焉の始まり。車社会となっていくなか、駐車場の無い現地から店舗の移転が始まっていく。(尾道商店街も同様でした) |
平成18年 | 2代目死去、享年88歳 |
平成19年 | 4代目実家に帰還、パン屋となる |